「薩摩藩天保の改革にみる、新説・純玄米黒酢の歴史」鹿児島大学 原口泉教授
はじめに
以前はごく一般的に、味噌や醤油、酢、酒といった調味料は各家庭で作られていました。 今でも味噌など自宅で作られる方もおられると思います。
1800年当時、このような発酵食品はもちろん家庭で作られていましたが、薩摩藩では福山酢が産業となります。 これまで福山の黒酢づくりは、“今から二百年ほど前、中国から来た一人の商人が福山の竹之下松兵衛に米で酢が出来ることを教えたのが始まり”と伝えられてきました。 恵まれた環境と結びつき、偶然にもこの地に根付いてきたもの。しかし本当にそうだっだのでしょうか?
江戸時代・天保年間(1830~1843)に行われた『天保の改革』から紐解けば薩摩藩と福山酢には密接な関係があることがわかります。
薩摩藩の財政改革を行った調所広郷
天保4(1833)年の薩摩藩。藩主は第10代の島津斉興でした。それまで藩政の実権を握っていた祖父・重豪が亡くなり、ようやく藩政改革に取りかかれたのがこの年。 斉興は調所広郷を重用して、主に財政面の改革に着手します。
当時の薩摩藩には500万両(現在のお金で1両10万円として5000億円)という莫大な借金があり破綻寸前。 その500万両の負債の250年賦無利子償還を江戸と上方で施行します。 今でいうとイギリスが18世紀に行って、1980年代にサッチャー政権で償還したコンソル公債、つまり永久国債に切り替えたという事です。
その後、清との密貿易や、徳之島などでとれた黒砂糖の専売制など、様々な財政面の改革を行いながら、物産の品質改良にも力を注いでいきます。 この時代に薩摩藩のウコンや菜種、櫨蝋(はぜろう:ウルシ科の植物、櫨の実からとる蝋)やお米などの品質改良の努力が現れ、良質な物ができあがってきました。 福山の玄米黒酢もその中の1つと思われます。
このように調所広郷の手腕で薩摩藩の財政は再建されていきます。財政充実の本道は国産の開発。煙草、椎茸、椎の皮、牛馬の革、鰹節、捕鯨、硫黄、みょうばん、石炭、塩、木綿、織物、絹織物、薩摩焼などあらゆる物産の開発に手をつけていきました。
このように藩をあげての物産開発のなかでこそ品質が向上していく。その中の重要な一環として福山の黒酢もあったことでしょう。