福山・黒酢の生産地である厚地家の文書記録によると、浜崎太平次、小松帯刀、都城島津家、そして琉球館の琉球王国の役人が結ばれていることがわかります。

「薩摩藩天保の改革にみる、新説・くろずの歴史」

鹿児島大学 原口泉教授「薩摩藩天保の改革にみる、新説・純玄米黒酢の歴史」鹿児島大学 原口泉教授


時代の潮流のなかで生まれた福山酢

 浜崎太平次の取引が蝦夷(えぞ)の産物、昆布などを集荷し琉球を経て中国へと非常に商圏がグローバルです。鹿児島の黒のイメージが生まれた黒い昆布と黒砂糖、この2大ドル箱商品の集荷地とマーケットが蝦夷と中国です。黒文化には黒酢も含まれるでしょう。鎖国の時代、日本には江戸と上方の市場しかなかった時に、中国市場を念頭にビジネスをしていたのは薩摩藩だけですし、その担い手が浜崎太平治であり厚地次郎江門であったわけです。遠くは中国から蝦夷、江戸などの食の事情にも精通してるでしょう。そういった背景からも独自の良質な酢は生み出されたのではないでしょうか?

また、黒酢のかめ壷は薩摩焼です。苗代川を振興した調所広郷の見立墓が苗代川にあるほど薩摩焼の郷・美山の人たちにとって天保の改革をおこなった調所広郷は恩人なのです。美山の陶工たちは産業振興してくれた調所広郷を恩人として感謝し、その薩摩焼で独自の良質な福山酢がつくられている。そういったつながりも感じます。

島津斉興とお由羅について語る原口氏

 福山酢の生産地である厚地家の文書記録を通してみれば、浜崎太平次、小松帯刀、都城島津家、そして琉球館の琉球王国の役人が結ばれていることがわかります。 幕末薩摩藩の大幹部・スター達の中で財政改革・産業開発が行われ、その一環として良質な福山酢が誕生したと考えてさしつかえないでしょう。

独自の良質な酢がつくられ、特に気候、暑い鹿児島で夏バテをしのぐ福山酢の需要というのはどんどん広がっていきます。 近隣には農業をしない(酢を自前でつくれない)永野金山(菱刈金山、佐渡金山に次ぐ規模※芹が野金山もあわせて)の鉱夫が、多いときには1万人くらいいました。 真っ先にそういうところでの需要が考えられます。 酢は、これら肉体労働を行う鉱夫などに配給され広まっていった可能性もあります。 重労働による体力低下やストレスを防ぐためにも、酢は必需品だったと思われます。 やがて技術と品質はさらに磨かれ福山酢は薩摩藩のなかだけではなく、江戸藩邸で使われたり、明治時代以降 船乗りたちなどを介し全国へと広がっていきました。

動乱の江戸末期から、薩摩に生きた人の食と精神を支えてきた黒酢。 お酢の発酵力が明治維新の影の力となり、その技法と想いは変わることなく今に伝えられ、現代に生きる私たちの健康な体と心を支える貴重な存在となっているのだと私は考えています。


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原口泉教授が新たに提唱する、福山黒酢の歴史についてご紹介します。