「くろず屋」の純玄米黒酢はかめ壷仕込みで醸造されています。ここでは歴史あるかめ壷についてご紹介します。

薩摩焼・苗代川焼と黒酢

薩摩焼・苗代川焼と黒酢 鹿児島県陶業協同組合 西郷隆文氏

薩摩焼とかめ壷の歴史

 文禄元年(1592年)全国制覇を成し遂げた豊臣秀吉は15万人の大兵を朝鮮に送り込みました。秀吉の死によって文禄・慶長の長い戦役が終わりをつげます。従軍していた諸将は帰国に当り、その文化を持ち帰りました。中でも、九州各藩および長州の大名は競って陶工を連れ戻り、それぞれの領内で窯を築かせていました。
陶工の渡来には、文禄四年説、慶長三年説があります。又、これらの陶工の上陸地、人数、姓名などについても諸説があり、必ずしも一致していませんが、上陸地点は串木野島平、東市来神之川、そして鹿児島の前の浜であると考えられております。これらは大略、竪野系、龍門司系、苗代川系に分けられます。

 島津重豪(第25代当主)の開化政策で、斉宜(26代当主)斉興(27代当主)と天保の藩政、財政の大改革が試みられました。その中心的役割が調所笑左衛門広郷。当時文政十年(1827年)に藩債は五百万両という天文学的な数字に達し、当時の年利が一割二歩だとすると利子だけでも年六十万両に及んだと思われ、それに対して藩の年収は約十三~十四万両であったため、重豪は今後10年内に借金の棒引きと、五十万両の備蓄を命じました。
調所広郷は軍政改革、農政改革など様々な財政改革の目標を上げ、物産の開発に取り組み、砂糖、うこん、樟脳、鰹節、硫黄、薩摩焼、など推奨しました。その改革を進めるなかで、福山港近くの山すそに壷がならんでいるのを見て、「あれはなんだ」と聞くと、共の者が「色付酢を作っています」といい、近くに行き中を見てみると、色の付いた液体があり、小指にてなめてみると、たしかに酢でありました。広郷はこの時黒酢に興味を抱いたのでしょう。

藩財政の再建を担っていた調所広郷は、苗代川焼を再興させるために村田甫阿彌(堂元)を派遣し、二つの登窯を築きます。これらを地元の人々は内コク窯、外コク窯と呼んでいました。この窯では白薩摩や黒薩摩の日用品の他に、大量の福山に送る壷も焼いていたのではないかと思われます。
現在も福山各地には古い薩摩焼(苗代川焼)のカメ壷が多数残っています。以前福山物産の重久浩社長と調所一郎氏(調所広郷七代目)と調べたことがありますが、壷の口脇に紐を通す耳が付いていることから、口からゴミが入らぬように保存しておくために作った壷を種麹用、又は、黒酢生産用に使用したのではないかと思います。私は薩摩焼を中心に作陶している陶芸家です。この時代のカメ壷も苗代川焼ですが、代表的な黒薩摩の製品です。これらを見ると明治維新につながる薩摩藩の活躍の礎となった天保改革の息吹を感じざるをえません。

黒酢の豆知識 記事一覧
黒酢とカメ壷
薩摩焼とかめ壷の歴史
くろず屋の純玄米黒酢はかめ壷仕込で醸造されています。歴史あるかめ壷について、西郷隆盛翁の子孫、西郷隆文氏が紐解きます。